【Linux30周年】Linuxから学ぶ草の根運動

草の根運動(grassroot movement)とは何でしょうか。そのことを考えるうえで、Linux運動なくしては語れないというくらい、Linux運動は、草の根運動を象徴する存在となっています。それでは、Linux運動の事例から、草の根運動とは何かについて、読者の方と一緒に考えてみたいと思います。

あらゆる差別や格差・支配や束縛をなくすみんなのシステム

経済的理由などでパソコンが使えないといったような、コンピュータをめぐるあらゆる差別や格差、支配や束縛をなくす、市民みんなの自由なシステムを。そういった理念で公開されている情報システムがLinux(リナックス)です。

今や誰しも知っているWindowsですが、Windows OSを基本ソフトウェアとする情報システムは今日でもなお高額であり、経済的理由などで使えない人も少なくありません。使えたとしても、Windowsユーザーは必然的に開発者のMicrosoftやアプリケーションソフトウェアのベンダーの思惑に縛られることになります。このように、高額で、なおかつ、ユーザーサイドでのソースコード編集が許されず、ベンダーに束縛されるような情報システムのソースのことを、クローズドソースといいます。

これに対して、Linuxは、Linuxカーネルを持つLinuxディストリビューションの総称であり、Mac OSのように、高度に改変され、全く別の独立した商用システムになったような一部の例外を除いて、原則としてソースコードの改変までも含めた、ユーザー主体的な自由な使用ができることになっており、基本ソフトウェアもアプリケーションソフトウェアも無償で使用することも可能です。そのため、今日では、千を超える多数のディストリビューションが知られるに至っており、情報システムの自由を象徴する存在となっています。このような情報システムのソースのことを、オープンソースといいます。Linuxのようなオープンソースのシステムは、経済的に苦しくてクローズドソースのシステムの利用が困難な人であっても、知性と創造的主体性が伴っていれば、理念の文字通り、誰でも使うことができるようになっているのです。

Linuxコミュニティのしきたり

当然のこととして、Linuxのユーザーコミュニティにも、これを知らないとやっていけないという、暗黙のしきたりというものがあります。このしきたりは、Linux運動以外の草の根運動にも普遍的に存在するものであり、その主体が知らないと、不平不満を言ったり、愚痴をこぼしたりして、最悪の場合は村八分にされたり、事実上追放されることすらあるので、各主体の責任でしっかりと理解しておくことが大前提となります。

まず一つ目は、各主体の責任(徹底した自己責任)だということです。Linuxは人間がつくるものですので、当然、何らかの瑕疵(バグ、エラッタ)はつきものです。たしかに、ユーザーの立場ならば、バグやエラッタに遭遇することはあまり快いものではありませんが、もし、それが逆の立場だったらどうかということを考えていただきたいのです。あなたがユーザーの幸せのことを想って、真心込めて世に送り出したシステムにも、たいていの場合、何らかのバグやエラッタはあるでしょう。それは、クローズドソースのWindowsなどにはないものかもしれません。だからといって、その瑕疵に対して不平不満や愚痴をこぼして頭ごなしに否定し、オープンソースを劣位とみる根拠をでっち上げるようなことは絶対にやってはいけないことなのです。オープンソースには、バグジラなどの瑕疵報告や機能改善提案を受け付けるサイトや、ユーザー間で助け合うコミュニティがあり、そのような場に報告したり、希望についてはっきりと表明することは、開発者の立場からも歓迎されることであり、オープンソースのユーザーとして積極的で好ましい態度とみなされるのです。ユーザーがハックしながら使って気づき、ユーザー間で高め合い、よりよいものにしていく、それが、オープンソースのコミュニティというものです。

第二に、前段でもあるように、草の根は非常に面倒です。その面倒に肯定的に向き合い、面倒を愉しむ(生きがいを感じる)くらいの気持ちがないと、いかなる草の根でも円満にやっていくことはできないでしょう。もし、面倒なことを敬遠するくらい、あなた自身に心の余裕がないのであれば、各主体(あなた自身)が心の余裕を持てるように変わる必要があります。心の余裕が持てないことは、生業であろうと何であろうと、間違えた人生なのだということに気づき、場合によっては、今の仕事をやめたり、転居するといった覚悟も必要になるかもしれません。そのくらいの積極性が各主体にないと、あなたが思うように、世の中はそう簡単には変わらないからです。それができないのなら、生半可なあなたは草の根ではトラブルを起こし、やっていけないかもしれません。まずは、徐々にでもよいので、面倒だと思うことも少しずつでも受けとめることから始めてください。そして、騙されたと思って、その面倒なことをやって、各主体もその周囲も変容していくよろこびを実感してみてください。それが、草の根でうまくやっていくコツなのです。Linuxなどのオープンソースユーザー運動の場合は、ハックして主体的に活用するということの繰り返しになります。そのハックするという過程は、マニュアル化されわかりきったWindowsシステムのようなクローズドソースにはあまりないような面倒さがありますが、その面倒さをどのように捉え、どのように向き合うかという人間としての懐の広さが成否を分けるといえるでしょう。それでやっていけないのであれば、Windowsでビル・ゲイツの思惑に振り回されても、誰も助けてくれないことでしょう。主体的な関与ができず、面倒なことが嫌でLinuxに不満があるなら、使わなければいい。高い金払って依存の対象として最適なWindowsでも使っていればいいと切り捨てられるだけ。シビアですが、それがLinux(オープンソース)というものであり、同時に、草の根の厳しさというものです。しかし、そのことを理解すれば、Linuxユーザーをはじめとした草の根コミュニティの人の深い温情に触れることができることでしょう。

第三に、草の根運動は、現状の批判的検証の結果の積み重ねだということです。日本の持続可能性教育の問題点として、批判的思考力が育てられていないということがありますが、これは、商業主義依存とあわせて、この半世紀もの間に、日本で草の根文化が衰退してきた重要な根本原因のひとつと考えられています。批判というのは、決して悪口をいうことではありません。批判的思考力というのは、自他ともに現状における要改善点を洗い出し、次への改善へとつなげていく、PDCAサイクルの原動力といえるものであり、解決力ともいえる能力のことです。Linuxも、Windowsや他のUNIXベースシステムが高額であり、ユーザーが限られてしまうということの反省から生まれた市民的なシステムです。そして今日でも、草の根精神で重要な一要素である批判的検証の積み重ねがあるからこそ、今後も情報システムとして持続可能であり、安泰でいられるのです。

第四に、草の根運動には、各主体における知性に裏打ちされた懐の広さが必要です。著者が尊敬する草の根市民運動家のひとり、故 高木仁三郎は、原発問題に立ち向かうために、各主体が身につける必要があるとして、一般の市民に核物理学の学習の場を地道に提供してきたといいます。「専門的なことは(素人の)市民には必要がない」というような消極的な思い込みや決めつけは、草の根ではトラブル必至となることであり、絶対にしてはならないことです。「よりよく生きるために、いかなる学びも惜しまない」という、各主体の専門性をも超越した、あらゆる知を受けとめるだけの懐の広さこそが、草の根でうまくやっていく上での鍵となるのです。

rootとは何か

Linuxにおいて、rootとは、「システムの核心部分の変更にも関与できる、フルコントロールの権限があるユーザー」のことを指します。直訳すれば「草の根」になります。上位権限の宣言には、su(= superuser)というのもありますが、rootとは最高権限を意味します。すなわち、草の根とは、目立たないものの、社会そのものを変えていける原動力となるという、市民社会における重要な意味を込めたものなのかもしれません。

Linuxのすすめ

このように、Linuxそのものが草の根運動といえるものであることから、現在WindowsなどのクローズドソースユーザーがLinuxに切り替え、Linuxを納得して活用する日常にすることで、草の根の真髄に触れることができるのです。これは、あらゆる草の根運動でLinuxなどのオープンソースを利用すべき理由です。最近では、著者の草の根運動の原点ともいえるようなNPOであっても、オンライン会議でzoomを使ったり、何の疑問も持つことなくWindowsや商業SNSを使うなど、原点乖離の現状が多く見られます。これらも、日本の草の根文化の崩壊を裏付ける現象であるといえます。あなたもLinuxを使って、草の根運動とは何かについて熟考し、日本はほんとうにこのままでよいのか、真剣に考えていただきたいと願っています。

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