農業こそ崇高な職業

私が小学生の頃の夢は、洋蘭農家でした。しかし、私の両親からは、「農業で食えるか!」と軽蔑されたのが嫌な思い出としてフラッシュバックしてくるのです。というのも、能勢の里山で有機農業の農作業をするたびに、農耕民族の日本人としての、多くの哲学的気づきがあり、これほど人間的な仕事はないとつくづく感じるたびに、この半世紀もの間の日本はなんて情けない時代だったのだろう、なんて罰当たりな時代だったのだろう、と思うからです。

日本の発展は、農業とものづくりが支えてきました。自然と人間の叡智を活かして、無から有を築き上げることで共通しています。最近の小学生の「将来なりたい職業」のアンケートでも、親も子もどちらも「農家」がないのは、近い将来の日本の国力の危機をも招きかねない深刻な事態といえます。

私が小学生の頃に植物に目覚めたのも、小さい種や球根から見事な花が咲いてくれるという、奇跡の星地球に根を下ろす生命の偉大さ、美しさに感動したのがきっかけでした。しかし、この半世紀もの間に、「カネさえ儲かれば、人を騙しても、射幸心を煽っても、何をしてもよい」というユダヤ・アメリカン商業主義に基づく価値観に捻じ曲げられてきたのです。そして、私の心も、周囲のいじめや両親の軽蔑で甚く傷ついたのです。それを癒やしてくれたのは、植物であり、水生生物だったのです。

崇高な農業と残酷な農業

本来、農業とは自然と向き合い、調和を模索する崇高な職業です。しかし、現状はどうかというと、そうとはいえない現実もあるのです。そうです。環境を破壊したり、動物などを虐待する農業です。昔は、銀鮒を水田に放ち、除草をさせ、水を抜く時期にはもとの用水路や小川に帰すという銀鮒農法という農法がありました。しかし、今日では、よくてせいぜい合鴨農法、多くの農家は、ネオニコチノイド系殺虫剤や除草剤などの農薬を使っています。養鶏はとくに顕著で、昔は雌雄混飼で小規模の放し飼いを行う農家が多数ありましたが、今日では、採卵養鶏全体の94%を占めるというバタリーケージ飼育の巨大ポートリーに集約され、鶏は残酷な扱いをされるようになったのです。この半世紀の間、農業は残酷なものとなり、儲からないことから軽蔑され、40%前後の飢餓レベルの自給率を輸入で補うという、何とも情けない矛盾をもたらしたのです。崇高な農業、それは、哲学的考察のもと、倫理的な方法によって、生産の対象となる植物や動物を健やかに育て、人の心身にほんとうに役立つ生産物を得る農業です。

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