【緊急特集:イセショック】イセ食品倒産の真の原因はこれだ(その3)

【重要なお願い】
ふなあん市民運動メディアは、読者のみなさまの善意のご参加で支えられる市民メディアであり、ご利用には、銀鮒の里アカウントの取得とログインが必要です。銀鮒の里アカウントによるログインを行っての利用が正しい利用法となります。
ウェブ検索経由でのご利用は正しいご利用方法ではありません。正規の方法でのアクセスをお願いします。(読み逃げや商業SNSへのシェア、権利管理者への記事・意匠等の無断使用(非ログイン状態での使用)は固くお断りいたします。とくに、ウェブ検索等の非公認のアクセス方法によって、権利管理者に無断で読み逃げをされる方につきましては、関連法令に基づき、当該アクセス元(個人または団体)の特定を行い、その結果を公表することにご同意いただいたものと判断させていただきます。
銀鮒の里アカウントでご利用いただくふなあん市民運動メディア:持続可能性は、その運営や記事の制作には費用と時間がかかっております。一定の条件の遵守をお約束いただくこと(市民社会契約)により、実質的に無償でご利用いただけますが、これは、決してタダという意味ではありません。この意味をご理解いただける方のみ、ご利用いただけます。

ふなあん市民運動メディア:持続可能性の記事をお気に入りいただいた方で、銀鮒の里アカウントをまだお持ちではない方は、下記のURLより無償で交付申請ができますので、必ずご取得いただきますよう、お願いします。
(取得に際しては審査があります。審査結果によっては、ご希望に添えない場合もあります。)
https://ginbunaschool.funaan.org/account/information.html

宗教的倫理観と共感力

はじめにお断りしておきますが、宗教的倫理観とは、伝統的宗教の大成や分派の派生の過程で構築されてきた、現代の普遍的な倫理・道徳観に至る哲学的過程についての超宗派的なものであって、特定の宗教の信仰を推奨するものではありません。加えて、この記事の著者(記者)は、自然科学教育に公益的に関わる立場もあり、無宗教の唯物論者であることを申し添えておきます。

生きるものを慈しむ気持ち、死を哀れむ気持ち、それは、食文化などの違いを超え、洋の東西を問わず普遍的なものです。人は、自力で努力を重ねてきたものの、万策尽き、自力ではどうしようもない状況に直面したとき、また、身近にいる生命あるものが死んだとき、実在しない象徴を神として崇め、その神に救済を求めようとします。これも、洋の東西を超え、宗教の違いを超え、共通しています。人は誰しも、自力ではどうしようもない苦難を経験すればするほど、他者に共感し、優しくなれるものです。そして、そのような人は、自分のことも大切にできるようになり、自分のことを大切にすることによって、他者を想う気持ちもより研ぎ澄まされ、共感力が増幅していくのです。

生命に向き合う園芸や農業、動物の飼育や畜産は、善くも悪くも、その指向に、その担い手の人間性が反映されるものです。マイケル・ファラデーや宮沢賢治を尊敬し、自然の理解や哲学的熟考文化の持続可能な発展を願い、経済的利益(営利)の独占(商業的成功)に関心がない記者は、38年にも及ぶ園芸の経験と、世間の流行に流されず、純然たる自発的学問的関心に正直に自然科学や教育に向き合ってきたアカデミアの経験から、市民的園芸・農業像の社会的具現化、すなわち、原種と伝統品種の発展的保全を意識した農業や、動物の生態や生態系の暗黙のルールに忠実で、自然の摂理に基づき、いただくことのできるものだけをいただくという自然な畜産・漁業こそが、持続可能な農業(生産)を考える上でなくてはならない方向性であると確信しています。

アニマルウェルフェア(動物福祉)やそれに付帯する人間の哲学的思考・生活様式であるやヴィーガニズム(純粋植物性食主義)に関して、日本は、先進国である欧米などと比べて大きく遅れをとっています。その原因の根幹にあるものは、共感力の欠如であり、やはり教育カリキュラムの瑕疵や社会の過度の経済至上主義指向や過度の合理化指向(いわゆる横着指向)に起因するところが大きいといえます。ではなぜ、日本と同じ資本主義国である欧米諸国では、アニマルウェルフェアやヴィーガニズムが発展し、日本が大きく遅れをとることになったのでしょうか。そのひとつの背景には、宗教(文化)に向き合う姿勢の違いがあります。

欧米諸国はキリスト教各派を信仰する人が多いキリスト教文化圏です。キリスト教の教義が最も大切にしていることは、「己の穢れを自力(敬虔な信仰心)で償う」ということと、「他者に捧げ、奉仕する」ということです。前者は罪悪感や自己研鑽、後者はレイジング(寄進)やボランティア、フィランソロピー文化の発展に大きく関係していると考えられています。前者に関して、「キリスト(神)に救済を乞う」というのは、一見して他者依存のようにもみえますが、実はその逆であって、自己の何らかの努力があることが、神による救済の前提にあるのです。欧米諸国では、自国の文化への尊重や他者への慈しみの気持ちを持つことが教育にもしっかりと反映されており、自然科学などのアカデミアで経験を高めるか、キリスト教などの宗教を敬虔に信仰し、功徳を積むかといった考え方が、今日の生活にも根ざしているので、このような利他指向のサステナビリティ文化が、ここぞというときにも急速に発展することができたというわけです。

もうおわかりのように、これらの基本的な考え方は、キリスト教に限らず、日本で身近な仏教や神道などでも同じことがいえるのです。日本でも、欧米の商業主義勢力が侵食し始める1970年代以前は、仏教や神道の教えやそれに基づくしきたりが暮らしに根付いていて、些細なことであっても、「(思慮のない行いで)罰が当たる」という考え方が身近にありました。仏教のお寺に通い、学校でやるような学びだけではなく、他の人との濃厚なコミュニケーションを通じて、揺るぎない人生観を形成する場としての寺子屋も身近にありました。ところが、日本では、商業主義による、見かけ上の豊かで便利な生活によって、そのような「罰が当たる」といった観念が薄れていったのです。例えば、昭和の頃のこどもは、お百姓さん(生産者)に敬意をはらい、「ご飯はひと粒たりとも残すな」と事細かくしつけられたものです。しかし、今日では、生産者の顔のみえない、生い立ちがわからない食品を平気で買っては、ゴミ箱に捨てることにも罪悪感のない人が多くなっています。そのようなことが積もり積もってもたらされた、商業主義依存・合理化の究極型と言えるもののひとつが、鶏が痛がって苦しみ死んでも、(経済的効果がないので)放置されるという、まさにこの動画に示す、イセ食品などで起こっている現実というわけです。

イセ食品の倒産、それは、日本の社会そのものが他者への思いやりや共感力に欠如し、ステークホルダーを平気で欺くサイコパス社会化していることの具体的な警鐘ともいえるわけです。

このイセ食品のCMのフレンドリーな印象は、実際のイセ食品の農場の現状とはあまりにも乖離しすぎている。しかし現状では、そのような批判ができない日本人も多い。これも、これまでの教育の失敗のあらわれといえる。

(その4に続きます。その4以降では、ケージ採卵養鶏同業他社に及ぼすイセショックの影響予測と今後の展望について考察していきます。どうぞ以後の記事の配信にもご期待ください。)

ふなあん市民運動メディアは、購読者登録(銀鮒の里アカウント取得)のうえ、購読者ログインすると、記者と直接コミュニケーション(ご意見・ご質問などの投稿)ができます。参加型の市民メディア本来の特性を活かすため、ログイン後コミュニケーションのご活用をお願いします。

銀鮒の里アカウントの取得は下記リンクからできます。
https://ginbunaschool.funaan.org/account/information.html

コメント

PAGE TOP
⚠警告:非認証ユーザーのコピー行為はあなたにとって重大な法令リスクを伴います。