「ライフライン産業で食い扶持を奪われる」が意味する日本社会のほんとうの危機

ライフライン(生活必需)産業とは、文字通り、この産業が停止すれば、生活そのものが立ち行かなくなるような、わたしたちの日常生活になくてはならないものやことを生産・供給する産業のことである。公衆衛生の維持に欠かせない石けん産業(石けん技術者)もライフライン産業の一つだ。銀鮒の里学校の公式ウェブサイトを精読された方ならばご承知のとおり、ふなあん市民運動メディアの記事の著者は、公衆衛生の維持と環境保全とを両立する社会的責任を化学者として果たしたいとの想いをもつ石けん技術者だ。しかし、石けん技術者であることで食い扶持を失われた。現代のユダヤ式マーケティングの論理で、「売れないものを作るから」と傍観者的に一蹴することは容易いことだ。しかし、そこには、現代日本社会の真の危機が潜んでいることを、忘れてはならない。

商業SNSでもてはやされている新産業の実態

もし、あなたが今、自信を持って語ることのできるあなた独自の哲学観をも持たずに、スマホで商業SNSを利用することが毎日のルーティン(欠かせない日課のようなもの、癖)になっているのであれば、あなたはその商業SNSの一部のインフルエンサーが発信して拡散されているニセ情報、すなわちデマに騙され、主体的に考えて答えを出すというプロセスを忘れている、事実上の思考停止状態だと断言してよいだろう。そのような人は、自分の考えを語ってもらっても、「商業SNSでこういうことが話題になっていて、私はそれを推したい」というような、他力本願的な話ばかりで、結局は自分の考えになっていないのだ。あえて批判を承知で書くが、例えば、小学生が将来なりたい職業のアンケートで、とくに男子の結果からは、日本の将来を悲観せざるを得ない現実を見せつけられる。とくに特徴的な変化は、「ユーチューバー」「ゲームプログラマー」「ゲーム実況者」「eスポーツプレイヤー」など、スマホ情報・商業ゲーム関連の非ライフライン産業がその上位に目立つ。その一方で、農家や石けん技術者(職人)といった、昭和以前からのライフライン産業の従事者の希望は上位には現れない。あまり魅力を感じない最大の理由は、「儲からないから」なのだそうだ。「儲からなければ親が困るだろう」という利己的な拝金主義が親の代から子にしっかり刷り込まれると考えると、何とも情けないではないか。情報産業を核とするSociety4.0のその先の社会像であるSociety5.0(リアルとバーチャルとの融合によって生み出される新しい価値)を目指す社会だからしかたがないという人もいるが、決して楽観的なものではない。それは、衣食住に必要なものや、社会の原動力を生み出す力が減るということを意味している。農家が減るということで、日本でも飢餓が現実になり、石けんがつくられなければ、公衆衛生上の不安や合成洗剤による環境汚染を深刻化させ、いざ新型コロナウイルスのような感染症禍が起きればパニックに陷ることになる。あたりまえに安心で快適な生活ができるのは、どのような人の、どのような仕事のおかげなのかということが、学校の先生でさえも教えられないということ、そこに日本社会の真の危機があるのであって、そのような(昭和の頃なら)ごくあたりまえのことだからこそ、丁寧に語り継いでいくことが、今、日本の持続可能なイノベーションのために行うべきことなのである。

日本社会の危機を食い止めるために私たちがすべきこと

現代特有の日本社会の危機を食い止めるためにすべきことは何か。ざっくりいえば、昭和の頃の生活の価値観を取り戻すことである。昭和の頃の生活といえば、刃物などの道具は職人芸を持った道具店や荒物屋で買い、多くは自分で維持管理をし、どうしても手に負えないときにだけ、その店に修繕をお願いするというライフスタイルだった。豆腐は豆腐店で買い、野菜は農家から直接買うか、八百屋で買っていた。それらが大規模なホームセンターや総合食品スーパーに集約され、それら店員の商品哲学意識がなくなると、店頭には、中国製などの粗悪な廉価品や食品添加物をふんだんに使ってハッタリを効かせた、見かけだけの超加工食品ばかりが並ぶという、まさにバイヤーの無知なセンスを反映するものとなったのだ。

実際に著者が体験したことだが、著者の怪力故なのか、手刈り用の薄鎌の柄が割れて、修理が必要になった。このようなとき、昭和の頃の刃物屋には、付け替え用の柄の扱いがあり、修繕に困ることはなかった。しかし、今日では、驚いたことに、このような付け替え用の柄がなく、店は「薄鎌なら買い換えるしかない」というのだ。これには慌てざるを得なかった。近年では、刃研ぎで済む場合を除き、鎌が破損すると、買い替えするしかないのだそうだ。ここにも、「使い捨て」という大量消費社会の名残りをみることができる。手作業の農業なら、鎌の柄の破損は当然のように経験するのだが、いまは手作業の農業をする人そのものがいないから、需要がないというのだ。さすがにこれではまずい。

銀鮒の里学校は、農業や石けん製造などのライフライン産業の社会的意義を、現代そしてこれからの時代にしっかり継いでいく、社会起業家を育成する学校(オルタナティブ・スクール)だ。現代の公立学校では忘れられ、当然、そこには哲学的熟考のプロセスがなく、教えることができないから、オルタナティブ・スクールを新設するというわけだ。一時は石けん技術者で食い扶持を失う壮絶な経験をし、日本社会の実験台になった著者が、「このままではいけない、教育から建て直さなければいけない」という想いでつくる唯一無二の正真正銘の市民運動によるオルタナティブ・スクール、それが銀鮒の里学校だ。銀鮒の里学校は、多くの人が「良い時代だった」というものの、過去のこととして諦めているあの昭和の頃のよき価値観を諦めることなく取り戻すことができるのだということを、実際の活動で実証することを丁寧に進めていきたいと願い、能勢町での手作業での農業などの取り組みを進めている。

私たち日本人は、何も考えずにものやことを消費するのではなく、少々高くても、職人の技が光る本物の道具を長く使い続けたり、豆腐や石けんのようなもので、職人の顔が見える買い物をあたりまえに変えていくことで、今日の日本社会の危機を食い止めることができる。そして、それを選び買う意味をしっかりと考えてほしい。そうすることで、職人の食い扶持を取り戻し、真面目な努力がしっかりと報われるという、日本の昔話の教訓にあるようなごくあたりまえにあるべき社会像が再現され、正直で強い社会として発展していくことができるのだ。

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