【銀鮒の里教育概論】各主体がこどもの見本であるということ

銀鮒の里教育の根幹をなす基本理念のひとつに、

各主体がこどもの見本であるということ

というのがあります。

いうまでもなく、これは、一教育者としての自覚と誇りを表すことですが、実は、教育者にかぎったことではありません。こどもたちの育ちをサポートする周辺の大人も、社会全体にもいえることです。さらには、こどもたちにもいえることです。なぜなら、発達や成長の過程にあるのは、こどもにかぎったことではなく、この広い世界において、大人も一生涯をかけて成長を続けるからです。(生涯学習の基本理念)

近年、現役の公立学校教職員による不祥事が相次ぎ、公教育全体の信頼をも揺るがしかねない深刻な社会問題となっていますが、まさにこれは、不祥事を起こした教職員一人ひとりの教職員としての自覚や誇りを忘れていることのあらわれといえるのです。しかし、このことは、不祥事が事件化した一部の教職員だけの問題でしょうか。いま、各主体一人ひとりが一時停止して、それでも、思考は停止せずに、じっくり自身に問いかけていただきたいことがあります。それは、前に掲げたように、

あなたのその行いは、こどもの見本であるかどうか

ということです。それでは、思考のフェーズを踏みながら考えていきましょう。

【第1相】それはあなたらしい努力であるかどうか

銀鮒の里教育論で頻出することに、「脱商業主義」「脱依存」ということがあります。商業主義とは、依存の対象そのものであり、依存とは、その対象となる商業主義に対する従属の多くを含む、自己逃避の行動様式全般を意味します。銀鮒の里学校では、器用かどうかには関係なく、内発的な創造に生産性を見出します。逆の言い方をすれば、商業的な何か(長いもの)に従属した(巻かれた)結果、仮に、一見して見栄えのよい何かが生まれたとしても、それは価値を持たないということです。これは、たとえ不器用であったとしても、手料理がなによりうれしいと思う(最大の価値を見出す)ことと同じです。これを、手料理の理論と呼ぶことにしましょう。

もちろん、手料理の理論は、手料理のみにあてはまるわけではありません。手づくりの教材、手づくりのイベント、手づくりの玩具や雑貨と、思いをこめた、手づくりのあらゆるものについてあてはまることです。例えば、客観的にみられる事例に、加工食品に頼った学校給食では残食が多いところ、給食調理員がまごころ込めて企画した献立にすると、残食がほぼゼロになったという例や、(総合学習などで学んだ)身近にいる作り手の顔が見えるものは、量産品よりもずっと大切に使い続けるということがあります。そうです。たとえ不器用であっても、作り手の思いのこもったものは大切にするのです。とくに、こころが純粋なこどもたちはその気持ちがよりいっそう強いのです。だからこそ、こどもたちには、こどもたちを思う、あなたらしい努力をする姿を見せたいのです。

【第2相】あえて他とは違うことを考え実行する

開発を手がけている技術者や職人、芸術家が常に大切にしていることは何でしょうか。それは、

成果(物)が唯一無二であること

です。すなわち、まねごとが嫌いだということです。ましてや、商業的なものに巻かれるなど、もってのほかだということもいえます。例えば、誰しも常識のようにいうことで、「FacebookやTwitter、LINEのようなSNSを活用しなければ人は集まらない」ということがあります。当然、銀鮒の里学校も、そのことはよく知っています。しかし、銀鮒の里学校は、あえてそれを公式手段としてはやりません。もちろん、バカじゃないのといわれることを覚悟のうえでです。なぜ、バカといわれても貫き通すのか、なぜなら、

いつの時代も、世の中を変えるのは、常に変なことをするバカだから

です。これら誰しも中毒のようにやっている商業SNSは、商業的依存の対象の一群をなすものであり、富の偏在の象徴であるGAFAや社会問題ともなっているプラットフォーマーでもあり、銀鮒の里学校が排除ないしはできるかぎり距離を置く対象でもあります。

前述のAIコントロールを含む商業SNSもまた然り、殺傷シーンのある商業ゲームや商業アニメのブームもまた然りで、これらは、同調圧力に巻き込もうとする、教育上の負の圧力です。その負の圧力をもろともせず、小さくても揺らぐことのない草の根的なやり方の積み重ねこそが、世の中を変える礎となる確かな力を育てる銀鮒の里教育の真骨頂といえることです。「もっとヘンな鮒を増やしていく」、これは、地域が、日本が、世界が変わっていくうえで欠かせないことです。

【第3相】できない言い訳をしないこと

誰しも、自分がいまだかつて経験したことのないことをやるとき、その過程で心が折れそうになることはあると思います。昭和の頃は、多くの苦難や逆境を経験してきたことからも、気骨のある(レジリエンスの高い)人が多かったですが、現代人は、逆境にあうとすぐに諦めてしまうレジリエンスの低い人が多いように思います。そのことは、昭和の頃のような市民運動文化の衰退を招く原因になっています。市民運動とはまさにそれ自体が苦難の連続であることが通例であって、苦難に遭遇するたびに挫折していたのでは、市民運動なんかできるはずもないのです。銀鮒の里学校の学校づくりも、教育で世の中の価値観を変容していく市民運動です。苦難に直面したとき、その克服のために、各主体に何ができるのかを真剣に考え、現実にしっかり向き合うことができるかどうかが、銀鮒の里学校に限らず、どのような市民運動の現場においても、その人がうまくやっていけるかどうかの成否をわけるのです。誰のせいでもないのです。すべてはそこにおける各主体次第、自分次第なのです。

【第4相】がんばったその先の未来像(ビジョン)を思い描く

人はなぜ頑張れるのか、考えたことがあるでしょうか。共通していえることは、頑張った先に、目標とする素晴らしい結果、明るい未来が待ち受けているからです。逆をいえば、お先真っ暗で誰が頑張れるのかということです。第2相で述べたように、各主体は、変容の動機づけをもたらすバカであるべきであって、バカだといわれるくらいに大きな目標、明るい未来像を想像し、その実現に向けて努力することは、とても大切なことです。目標以上のことは実現できませんから、バカなくらいに大きく、それでいて、実現可能性が十分にある目標を立てることが大切なのです。例えば、月面上に銀鮒の里学校を開校することは、実現可能性ではほぼゼロに近いことですが、農村部の古民家を活かすかたちで銀鮒の里学校を開校することは、頑張れば十分に実現可能性があることであるといえます。妄想でもいいのです。頑張った先に、どのような未来像を実現するのか、それが有意義であればあるほど、頑張る力になるのです。第3相と互いにフィードバックしながら、第3相で心が折れそうになったら、第4相で思い描いたことを思い出すということを繰り返すことができれば、どのような困難でも乗り切れるはずです。

気づかなかったのは知らなかったのと同じ

よく、このような話をすると「あたりまえのことだ」という人がいます。しかし、この話がなかったこととして、その人が同じことを語れるかというと、それは全く別問題です。聞いてみて、その教育論であたりまえだと思えるということは、その教育論がそれだけ正しいことだということです。問題は、各主体がそのことに気づくことができるかどうか、そのことを日常の一部として、しっかりと行動に活かせるかどうかということです。ただ単に「それ、聞いたことがある」ではなくて、各主体が、その教育論を見聞きしなくとも、自身がしっかりと行動に反映できてこそだということを各自でしっかりと言い聞かせるようにしてください。

【銀鮒の里学校 おとなのまなび インターネットラジオ講座】各主体がこどもの見本であるということ

この記事に連動したラジオ講座です。この記事の本文をテキストとしてご活用ください。繰り返し再生可能な音声メディアですので、ながら聞きもできます。(所要時間:約30分)

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