こどもの自由としつけ

正しいしつけこそ、こどもの自由を守る

こどもは大人のように取捨選択ができません。

だから、大人には、こどもの取捨選択を支える責任があります。それが、しつけの意味です。

こどもは、知識や行動範囲が限られていますので、知っているものか、近くにあるものしか選べません。

そのようなこどもが選べるものが、商業依存的なものしかなかったとしたら、どうでしょうか。

そのこどもは、必然的に商業依存的なものやことに縛られることになります。

そして、親など周りの大人が、商業依存的なものしか知らなければ、こどもの世界観は、必然的にその大人の知っている範囲内に束縛されることになるのです。

では逆に、こどものまわりにあるものや、周りの大人が知っている世界が、商業依存的なものではなく、自然なものであったり、昔からなじみがあるものであったりしたら、どうでしょうか。よほどひねくれていないかぎり、そのようなものに関心を持ち、そのようなものに関する世界観を、こどもは持つようになるはずです。

近くに自然がないとしても、こどもの近くに昆虫図鑑があれば、そのこどもは、昆虫好きになる可能性が高くなりますし、魚図鑑があれば魚好きになる可能性が高くなりますし、植物図鑑があれば植物好きになる可能性が高くなります。図鑑がきっかけになって、本物を見たり触れたりしたくなります。こうして、自然における世界観を拡めていくのです。

最近の都会では、ほとんどの場合で世界観の拡げ方が間違っています。世界観を拡める対象が、ゲームやアニメといった商業的かつ人工的なものに向いているのです。周りの大人も、そのようなものしか知ろうとしないから、こどももその大人の影響を受け、さらに、クラスメイトからも影響を受けることで、その影響は、乗算的に大きくなります。「クラスメイトの〇〇くんが△△というゲームを持っているから、△△を買って(ダウンロードさせて)」というのがそれです。

そのような商業的で人工的なものの世界のひろがりは、商業的ではない自然や伝統的なものやことには遠く及びません。ひとたび商業的で人工的なものの世界に没入する癖がついてしまうと、商業的ではないものへの世界に関心を仕向けることが非常に困難になります。なぜなら、商業的で人工的なものは、心理的に深く没入させ、世界観を固定化させるようにつくっているからです。そのようなものに没入してしまうと、自然や伝統的なものやことの体験の機会が遠のき、世界観が狭小なままで育ってしまうのです。それは、自由が束縛された状態なのであり、現代の教育問題の本質なのです。

商業依存的なものを捨てる(禁止する)教育上当然の理由

何事も、新しいことを取り入れるよりも、まず阻害要因を除去することが重要です。阻害要因の影響を受けている状態で新しいことを取り入れようとしても、阻害要因がそれを強く阻害するため、効果的に取り入れることができないからです。その阻害要因にあたるのが、先に述べた、商業的で人工的なものやことです。除去とはいっても、一度こどもが体験してしまうと、除去が困難になってしまいますので、こどもが体験しないうちに、未然に除去しておくことが重要です。その具体例が、商業的なゲームやアニメ、マクドナルドなどの外資系ジャンクフードの禁止です。

よく、「銀鮒の里学校が商業ゲームやマクドナルドなどを禁止するのはおかしい」「こどもの自由を奪うな」などと、場違いな批判をされる方を時折みかけますが、そのような商業的なものやことにしか触れさせない親や周りの大人の無知こそが、こどもに対する拷問であり、虐待を生んでいることに気づくべきです。こどもが自由な状態、それは、例えば、昆虫図鑑で知った昆虫に、大自然の中で親しませる機会を与えてあげたり、こどもたちがまだ知らない花もたくさん植えられたナチュラルガーデンで、植物の世界の奥深さを体験する機会が与えられている状態です。人工物であっても、ほぼ無限に工夫できる電子工作やオープンソースのコンピュータ活用などでも同じことがいえます。要するに、こどもが有意義で自由な拡がりが許容された思考ができ、有意義な世界観拡大ができる機会を与えることこそが、こどもの自由と、それに伴う、芽を摘まない自由な成長につながるわけです。

マクドナルドや商業ゲームのような、世界観の定義を狭く束縛するようなものやこと、すなわち、近江商人の心得十訓の五にある「人の好むもの」(=人のためにならないもの)はきっぱり捨て、「ひとのためになるもの」に知的資源を集中して取り入れることが、こどもの自由を確立する教育では重要になります。

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