「ソーシャル・ディスタンス」「アナフィラキシー・ショック」「サステナビリティ」「レジリエンス」「ガバナンス」「アニマルウェルフェア」などなど、現代の日本社会は、カタカナ語で溢れています。「日本なのに、カタカナ語ばかり使うな」と不平不満を漏らす人も多く見られます。一般的にいえることとして、不平不満は、中途半端な行動に起因する無責任な発言であり、市民運動家からみて、これほど不愉快なことはないと思います。
市民運動では、「反対するなら、対案を示し、自ら筋を通した行動を可能なかぎりすべきである」という大原則があります。もし、カタカナ語ばかり使う風潮に責任を持って反対するのであれば、自ら進んで、日本語化の対案を世に示し、その普及のための運動を起こすべきなのです。それが、市民運動というものであり、反対しっぱなしでは不平不満でしかないのです。言いかえれば、市民運動とは、自ら責任を持って行動できる範囲で行うべきであるともいえます。(関連の内容は、3月3日付けの「Linuxから学ぶ草の根運動」の記事でも言及していますので、あわせてお読みいただくことをおすすめします。)
もし、カタカナ語ばかり使う風潮にとくに反対しないか、反対の対案を示せないのであれば、不平不満をいうのではなく、今現在、日本社会で使われているカタカナ語の正しい意味を理解する努力を各主体がすべきなのです。例えば、理化学用語でも「インピーダンス」「アルコール」「エステル」など、カタカナ語の使用が公認されている場合が多いですが、このような、一度関連学会で公認されている表現を、中国語の表現のように日本語化しようというのは、これまでの日本社会の動きをみても、ほとんど現実味がないことです。
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