日本では、鳥インフルエンザ(AI)が発生するたびに「風評被害が懸念される」であるとか、「鶏の肉や卵を食べても人に感染しない」といったことが必ずといってよいほどいわれる。実際に、最近AIが発生した富山県でも、下記の中日新聞の記事のような風評の問題が起こっている。
さらに、同じくAIが発生した鹿児島県でも、国や県の自主判断によって鶏の肉や卵の輸出が停止され、国内でも需要がなければ、廃棄処分の可能性もあるとして、養鶏関係者から懸念の声が上がっているという。
だが、世界的にみて、それは全く次元の異なる幼稚な議論と言わざるを得ない。私たちが醸成したいのは、「人が鶏の肉や卵を食べてもAIに感染しないのか」という利己的な議論ではなく、「人は鶏(鳥獣)とどのようにつきあうべきか」という利他的な議論である。動物福祉が進んでいるといわれる欧州(EU)圏の地域では、バタリーケージを用いる養鶏はすでに9年前から禁止されており、冷静な対応ができる社会的基盤ができているうえ、全地球規模で持続可能性の価値観が発展しつづけるなかで、それならば鶏の肉や卵そのものの消費をやめようというベジタリアンやヴィーガンを主体的に目指す人も、知的富裕層から増えている。いまやEU圏では、ベジタリアンやヴィーガンの人は少なくはなく、狩猟民族の食文化そのものを変えるくらいの勢いであるが、いたって冷静だ。彼らはいう。
「肉や卵を食べなければよいだけであり、(植物性のものだけでも食べるものはたくさんあるから)決して難しいことではない」と。
そこで必ず出てくるのが栄養学だ。人(Homo sapiens)は動物学的には雑食性であるから、もともとは完全菜食のヴィーガンは自然の摂理に反するとも考えられてきた。たしかに、ヒトは本能に任せるかぎり、狩猟や捕獲で動物の肉を得てきたということは、縄文・弥生時代の貝塚の存在が物語っている。しかし、そのころのヒトは、科学という概念が確立していなかったため、生活は本能に依るところが大きくならざるを得なかったのも否めない。
ところが、現代のヒトは縄文・弥生人とは決定的に違う。なぜなら、我々は科学という理性的な概念が確立し、誰もが各々の主体的意思次第で、その知的恩恵にあずかることができるからだ。ヒトはまず、この世は「地」「水」「火」「風」「空」の五元素から成り立っているということに気づくようになった。これが、化学でいうところの「元素」の概念のはじまりである。五元素説の時代は、まだ宗教的信仰で世の中が動いていた時代だったが、この世にあるあらゆる物質は必ずしも一つの元素だけで成り立っているのではなく、複数の異なる元素が結びついてできた「分子」も存在すると気づくようになり、それらを構成する元素の数も増えてきた。有機化合物は生命が生じるのだという生気説も議論され、今日では否定されてはいるが、このことが有機化学という学問を生み出した成果は大きい。栄養学も有機化学によるところが大きく、このような化学の発展なくしては、今日の栄養学はあり得なかった。栄養学やその周辺化学分野の発展は、ヒトの本能や食性をも超える理性的概念として、ベジタリアンやヴィーガンの文化とともに、新しい発展を遂げようとしているのである。
食の意識改革、それは、このピンチの多い世の中で冷静に判断し、力強く生き抜くレジリエンス(変化対応力)を高める重要な方向性のひとつである。このメディアの読者で、まさか原材料や食品添加物、持続可能性への配慮などの表示を確認せずに買うような人はいないと確信するが、このような情報を確認せずに買うというのは論外である。買ったそのときはよいと判断したとしても、「ほんとうにその判断を続けてよいのか」という批判的思考を絶えず行い、周囲の良質な知的刺激も受けながら各々の知的水準を高め、レジリエンスを高めていくという一人ひとりの主体的努力が、今後、日本社会が国際社会でうまくやっていくためには欠かせない。
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