建築、植物、そして動物…本質見失う「エビ天社会」の弊害露呈
駅舎、公立の美術館や庁舎など、数多くの公共建築に採用されている有名建築家、隈研吾が設計やデザインを手掛けた木造建築にカビが繁殖し、改修が必要な事態になっていることが、マスメディアで取り上げられ、ネットでも議論を呼んでいます。今、まさに、公共建築の木質化ブームですが、そのブームに乗るかたちで、建築の持続可能性を熟考せず、「ただ木を使えばよい」「木質化こそがSDGsだ」と、安易に木質化を進めてきたことのツケといえる事態が発生しているのです。最近では、兵庫県知事選挙で斎藤元彦氏が再選されたことと関連して、建築・土木利権絡みで一旦は計画が推進されてきた兵庫県庁の安易な木質化改修にブレーキをかけた斎藤知事の業績というかたちでも注目されています。
木質化自体は、ふなあんも推進派であり、とくに公共政策としては、衣食住の「住」政策として不可欠なことだと考えます。しかし、見た目重視で耐久性を無視したような安易な木質化では本末転倒であり、むしろ阻害になると考えます。そもそも、外構部に無塗装でむき出しの木材を露出させるのは無理がある設計なのです。風雨や微生物に容赦なく晒される自然界において、有機質の天然素材は腐朽する運命にあります。その腐朽に抗おうとして、毒性の強い防腐塗料を使うというのも、これまた本末転倒です。コンクリートも特性上ひび割れが不可避であり、数十年単位でみれば、老朽化が際立ちます。ですから、建築に耐久性を求めるのであれば、伝統建築で耐久性が実証済みの石積み、レンガ造りや土壁、木材であれば焼き板を活用したり、耐候性が最強レベルの金属素材であるステンレスを活用して、風合いのコントラストを出すといった工夫も考えられます。木質化は風雨から回避できる屋内では非常に有用であり、とくにこどもが居住する空間には少しでも多く取り入れるべきです。見た目がよいから、使うことがよいからといって、安易に使うというのは、考えものですし、とくに建築家であれば、素材の限界というものを心得ているはずですから、プロの良心というものがあるかぎり、そこはしっかりと割り切って、数年でカビるような不適切な使い方は確実に回避できたはずだと悔やまれます。さらに、その建築家の個人邸の外構部は非木造であることも、「矛盾しているのではないか」「何を考えているのかわからない」と批判の槍玉にあがっています。
公共放送NHKの長寿園芸番組「趣味の園芸」も見た目優先で、その内容の荒廃が、園芸文化の衰退を招く懸念があると問題視されています。とくに、昨年10月に放送された「乙葉グリーンサムへの12か月」というコーナーの「雑貨感覚で楽しむ多肉植物」は、園芸番組の体をなしていない、ズサンの極致に達した内容でした。この回は、タイトルにあるように、多肉植物を生き物として扱わず雑貨感覚で扱うことを最優先し、その現れとして、底穴のない雑貨容器に多肉植物を植え付け、最小限の水分補給でしかないような中途半端な水やりを教示するという、最後まで「見た目重視」を極めた内容だったのです。さらに、同じ番組内シリーズの11月のグリーンサムは、「冬越しの極意」というテーマで、温室内が研究フィールドの千葉大学の研究者が、家庭では使いものにならないような、誤解を招きかねない冬越しの方法を説明していたり、12月のグリーンサムは、園芸番組を放棄したともとられかねないような、フラワー・アレンジメントに関する内容だったのです。別の回では、バラの薬剤散布に関する説明もありましたが、具体的にどのような成分の薬剤を使用するのかであったり、どのような安全対策を行うのかといった説明は皆無であるなど、きわめて無責任な内容でした。バラは見た目を極端に気にしなければ、薬剤散布なしで栽培することも十分に可能です。薬剤散布をするのであれば、使用する薬剤の成分や安全対策にも責任をもって行う必要があります。そのような責任を持てないのであれば、近所迷惑になったり、環境破壊のおそれもあるので、見た目を保つための薬剤散布は絶対に行われるべきではないのです。
実際に、10月のグリーンサムが影響したと思われる、非常に悲しい売られ方をしていたのを、この大晦日に目撃しました。穴のない容器に植えられた、今にも枯れそうな多肉植物のこどもの寄せ植えが売られていたのです。これこそが、多肉植物を雑貨扱いしたことによる、多肉植物の悲惨な末路なのです。本来、園芸とは、花の見た目ではなく、発芽から成長、開花、一生を終えるまでの、植物の生育に親しむ、人間性を育む活動です。あなたは、このような多肉植物の扱い、そして、そのような扱いを報じたNHKを許すことができるでしょうか。
兵庫県阪神間のとある大手のペットショップ、そこには、道路から目立つように、「(犬などの)トリミング(散髪・毛刈り)」のサービスを行っている旨が掲げられています。そのペットショップは、売れ残りの子犬の扱いの倫理問題などに関して、とあるメディアが報じたことで、動物愛護運動家が問題視していることでも知られています。大阪府の北摂地域や兵庫県阪神間などには、犬のトリミングやシャンプーなどといった、ペットグルーミングを提供するペットショップや専門店が多くあります。そこで、すべての飼い主に問いたいことがあります。
そのトリミング、ほんとうに犬や猫などのペットが求めていることでしょうか。
そのトリミング、実は、飼い主の自己満足ではないでしょうか。
飼い犬とはいっても、もとは野生動物です。そうであるかぎり、主体であるペットが人間の思い通りに応えることには、限界があるのです。もし、あなたがペットの飼い主であり、真にペット思いであるのなら、ペットグルーミングは、ブラッシング程度でよいのです。(ブラッシングは、毛づくろいの代替として、新陳代謝の促進やノミ・マダニといった害虫の除去や発生防止などの効果があると考えられています。)そして、ペットがどうしても求めているのであれば、そのときに限って、水浴びをさせる程度でよいのです。わざわざ高額な費用を払ってまで、有害な合成界面活性剤の入ったシャンプーを使ったり、飼い主やお店の自己満足としか思えないようなトリートメントなんかを使うのは、百害あって一利なしなのです。(これは、あなた自身を含めた人間にもいえることです。)意外にもペットは、毎日、エサやりや散歩などで適切なコミュニケーションができていれば、あとは放任に近いくらいが、ペットにとっては幸せなのであり、過干渉はストレスを与えるだけです。犬や猫は言葉を話せないので、真意を通じ合わせるのは困難です。もしかすると、飼い主のあなたが勝手に、あなたの見栄でしたいことをしては、犬や猫の気持ちをわかった気になって、自己満足しているだけなのかもしれません。そういう飼い主が、今日では非常に多いように思います。動物福祉先進国の欧州諸国では、もうすでにペットショップは古いものになっており、ペットを家族として迎え入れたければ、里親探し会に行くというのが常識になっています。そして、雑種でも問わず、真の動物好きな善良な人が、責任ある終生飼養を固く約束してから迎え入れるのです。日本国内でも、自治体や非営利団体などによる里親探し会が開催されており、そのような場で新しい家族を迎え入れるという人も増えています。ペットショップは、せいぜいエサや必要な飼育用品を購入する程度のお付き合いにし、興味本位での生体の購入は控えるべきです。
ペットの見た目優先の矛先は、究極的には人間社会にも向くと考えられます。そうなったとき、どうなるでしょうか。見た目のためなら、有害物質で他人に迷惑をかけることも、環境を汚染することも、厭わないという人が増えるでしょう。大げさではありません。現実にも、すでに、柔軟剤や化粧品の香料で他人の健康を害するなどの化学物質過敏症の問題などとして表面化している社会問題も、まさに「見た目優先」の弊害ではないでしょうか。人として当然のもの、例えば、他人の手の脂だとか、他人のうんちだとか、健康な他人の身体からでるものを極端に嫌う風潮もその弊害といえます。今日では信じられないかもしれませんが、昭和の頃までは、他人の元気なうんちは、いわゆるぼっとん便所や下水さらいなどで、ごく身近に目の当たりにしていたもので、それをいちいち嫌っていたのでは、気持ちが持たないということがありました。だから、他人のうんちを見かけたら、微笑ましく思ったりしたものです。筆者自身も、他人の健康なうんちをみかけたら、元気の証の「ばばっち」として、「この人も元気なんだな」と好意的に捉えるようにしています。
見た目重視社会を正すために、あなたがすべきこと
一言で結論をいえば、
本来あるべき素の姿を愛する
ということではないでしょうか。これは、ここで挙げた無生物の建築でも、生物の植物や動物でもいえることです。さらにいえば、人間(社会)にもいえることです。
ふなあんが持つべきとするマインドセット、それは、
ばばっち志向
ということです。「ばばっちい」は程よい自然美とにおいが調和し、美しいのです。「ばばっちい」とは、一見では、みすぼらしいと思うこともあるかもしれません。しかし、それに意味があるかぎり、寛容になれて、その奥にある、本質的な美しさを見出すことができるのです。「ばばっちい」というのは、この世の中で力強く存在したり、生きているものが放つ、力強さの証なのです。
建築であれば、シンプルで地味であっても、天災や風雨、数々の老朽化圧力に耐え、住まうほどに、使うほどに、人のにおいを吸収して深みを増していくのです。
植物であれば、健康最優先で育った植物は、その力強い生き様が美しく、地味な花でも映えるのです。植物によっては、強く生きている証として、ばばっちいにおいを発します。そのような美しさがあれば、何も人間の都合で無理やり寄せ植えをしたり、鉢の美観などにこだわらなくても、その植物の生き様そのものが美しいのです。
動物でも、植物と同じ生き物ですから、同様のことがいえます。真の動物好きであれば、動物の体臭(例えば、猫の肉球のにおい)が大好きだという人も多いように、まるで、健康な自分自身や友達や家族のように受け入れることができたりするものです。うんちなどの排泄物でさえも、ネガティブな感情を持ったりはしないはずです。動物でも人でも、種の違いをこえていえることです。生きていることがなにより美しいことを、心身ともによく知っているからです。
ばばっち志向は、不潔にするということではありません。逆に、衛生的に(あらゆる意味での)免疫やレジリエンスを最大化し、自然なことに寛容になる志向です。それに、人間らしい文化が融合することで、自然と文化が調和した、人間らしさを発揮できる社会になるということです。いたずらにわざとらしくするのではなく、ありのままを受けとめることからはじめていただきたいと、ふなあんでは願っています。
ありのままの、人間くさいあなたを、ふなあんは愛したいと願っています。
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