鶏から幼児、元首相まで
6日の富田林女児ネグレクト熱中症致死事件に、8日、奈良で突然起きた安倍元首相銃撃射殺事件。これらの事件の共通点は、関西地域で起きた殺傷事件というだけではない。海外メディアも驚きを隠せないその奥底には、現代の日本社会に潜む脅威的な社会病理がある。これらの事件は、すべて、「安易に殺める社会」ということで共通しているのだ。
6日の富田林女児ネグレクト熱中症致死事件に関して、週刊女性PRIMEの報道で新たな事実が浮上してきた。ネグレクトに関わった桃田容疑者は、大阪府内で有名なバタリーケージ卵業者である桃田鶏卵の役員(専務)であることが判明したのだ。桃田鶏卵のバタリーケージ卵は、大阪府内などの一部の食品店では、鶏卵全体に占めるシェアの大部分を占めているほどだ。警察の取り調べでは、職業を「自営業」と答えているというが、実際には、桃田容疑者は、桃田鶏卵の専務のほか、桃田鶏卵の事業の一環として保有するマンション「ももちゃんヒルズ」の賃貸事業も手がけているという。「自営業」と答えたのは、事件が自身が専務を務める桃田鶏卵本体に及ぼす信用ダメージを恐れての供述ではないかとみられている。
さらに、警察が疑ったとおり、USJに行く前に奈良に行ったという陳述は虚偽であることもわかり、さらに、ネグレクトに関わった時間が約半日の11時間ではなく、実際には、約2日間であることも発覚、この2日もの間、小野容疑者と2人で、自身の育児のストレスを発散するために、ホテルに宿泊し、USJで豪遊していたということもわかっている。冷房も食事もない真夏の部屋で2歳児を2日間も放置すれば、確実に死亡するということは、誰でもわかることである。だから、二人の容疑者に、2歳児に対する殺意があったことは疑うまでもないとみられている。保護責任者遺棄罪には、刑罰の重さにいくつかの段階があるが、明らかな殺意があると判断され、実際に死亡せしめたこの場合は、同罪の最高刑である「致死」と判断される可能性が高く、警察側は今後の刑事訴訟でこの最高刑の適用を求めていくとみられている。
バタリーケージ養鶏は、動物に対して極端に搾取的であることから、EUでは2012年から法律で禁止され、全世界的にも、米国の一部の州などで、同様の規制が進んでいる。バタリーケージ養鶏はひよこの段階から殺生を厭わない。まず、雄ひよこは雌雄判別の際に即殺処分されることが多い。選別された雌ひよこは、拘束度の高いバタリーケージに幼い頃から閉じ込められて虐待的に飼育され、その極度のストレスから、生後550日までの飼養期間中に雌鶏の10%以上が死亡していることも少なくない。飼養羽数が異常に多いために、すべての鶏に注意がいかないことは、業界では「日常的な常識」として許容されており、このような飼養方法が(人間の)ネグレクトに通じると批判される所以である。生後1年半(550日)もの間、虐げ卵を搾取され続けた雌鶏は羽がボロボロになり、卵殻形成で母体のカルシウムが使われるため、カルシウム欠乏で、骨粗鬆状態になる鶏が多い。生後550日齢の鶏は、オールイン・オールアウト方式という、工業的畜産特有の管理手法で一斉淘汰され、廃鶏として、生きたままゴミ同然に放置された末、ヒアルロン酸などの化粧品・サプリメント原料などにされている。このような残酷に満ち溢れた日常を何とも思わなくさせることが、バタリーケージ養鶏業界では「従業員教育」なのだ。持続可能な価値観への変容が求められているESD/SDGs時代の今、日本のバタリーケージ業界には、致命的な歪が生じている。安倍政権時代に起こったアキタフーズ贈収賄事件、業界最大手イセ食品の倒産、そして、桃田養鶏関係者が関与した富田林女児ネグレクト熱中症致死事件だ。
動物愛護法が人間社会で重要な理由:AW仮説
動物虐待(クルーエルティ)は、人への傷害・ネグレクト・殺傷行為への入り口(引き金)だとする、至極真っ当な考え方がある。これが、AW(アニマルウェルフェア;動物福祉)仮説である。前述のように、バタリーケージ養鶏は、その行為の一つひとつがクルーエルティだといっても過言ではなく、EUで真っ先に規制されたのも当然であるといえる。お好み焼や洋菓子などで、日頃何気なく食べている人が多いケージ卵だが、このような業界の闇を知っている人は、日本国内では非常に少ないのが現状だ。このことは、知らず知らずのうちに、クルーエルティを容認し、殺生に対する罪悪感を弱めることになってはいないだろうか。この富田林女児ネグレクト熱中症致死事件は、AW仮説に対する非常に有力な社会的エビデンスとなったといえよう。日本社会のAWに対する意識の低さは、日本社会における、傷害・殺傷事件増加などによる治安悪化にも大きく関わっている一因ではないだろうか。
殺傷ゲームに宗教マルチ没入トラブル…凶気をもたらすキーワード
8日の奈良・安倍元首相銃撃殺傷事件。日本社会は銃犯罪とはほぼ無縁と考えられてきただけに、国内のみならず、海外メディアにも衝撃が走った。理由の如何に関わらず、暴力による殺傷は最大の非難に値する。参院選の選挙戦の最中で起こったこの事件に、政治ではライバルに相当する党であっても、ライバルであるかどうかを超えて、暴力そのものに対する強い憤りを顕にしていた。そこで考えたいのが、山上徹也容疑者(41)がなぜ銃で殺傷することを思いついたのかということ、そして、殺意に至ったとされる、容疑者が安倍元首相が関わっていると主張している、ある宗教団体への家族の没入によるとされる家庭崩壊だ。
銃などの凶器で敵キャラクターを大量に殺傷するということを容易に実現してしまう、それも、殺傷そのものを(ゲーム内の)ミッションとする、それが、殺傷ゲームの世界だ。ニンテンドー・スイッチやプレイステーション、Windows PCやスマホの殺傷ゲームを起動すれば、そのような世界をいつでもプレイヤーの脳内で実現するのだ。
そして、もう一つ、国をあげて推進しようとしている、リアル世界とバーチャル世界との境界を曖昧にしようとする計画も、熟考では無視できない。ムーンショット計画だ。リアル世界とバーチャル世界との境界が曖昧になるという、人類未曾有の社会変化が起きることになるが、それに対応した全く新しい道徳・倫理観が事前に「インストール」されていることが、治安維持上必要だ。
殺傷シーンのあるゲームをめぐっては、商業ゲームの業界団体CERO(特定非営利活動法人コンピュータエンターテインメントレーティング機構)による自主的レーティング制度があるが、この制度には法的拘束力はなく、購入やプレイの意思決定は各主体の良識に委ねているというのが現状だ。例えば、三菱商事グループのコンビニ大手ローソン(東京都品川区)では、殺傷ゲーム(CEROレーティングC(15禁)・D(17禁))のPOSAカードが、小学生でも購入希望があれば販売しているレーティング違反の実態があることを、ふなあん市民運動メディアの独自取材で確認している。ふなあん市民運動メディアでは、15禁のフォートナイトやモンスターハンターなどの殺傷ゲームが、小学生の間でも話題になっているという現実を重く受けとめたうえで、教育系市民メディアとして、ローソンに厳重抗議をした経緯がある。
そのような、殺傷ゲームが野放し状態になっている状況にあって、リアル世界とバーチャル世界との境界が曖昧になっていくとどうだろうか。想像しただけで恐ろしいことであるが、殺傷ゲームの中の世界が、徐々に現実化していくということになる。8日の銃撃の容疑者も、犯罪心理学的には、殺傷ゲームでラスボスを倒すミッション気取りの現実化なのかもしれないから、警察も社会の現実に則したうえで、容疑者に関して、その点に関しても捜査の目を向けることは、今後の犯罪予防の観点からも大切だろう。殺傷ゲームや暴力ゲームでは、架空の戦争やケンカがストーリーになっていることも多いから、今日でも平和ボケやいじめの温床になるといった矛盾をもたらしている。この矛盾に、一人でも多くの人がいち早く気づき、適切な行動に反映させることこそが、近い将来の日本社会に安心安全をもたらすうえで欠かせない。
山上容疑者は、警察の取り調べに対して、「(安倍元首相が関わっていたと思う)宗教団体に、母がのめり込み、それに多額を注ぎ込んで家庭崩壊した」ことを、犯行の動機として述べているが、家族が宗教やマルチ商法にのめり込んで家庭崩壊に及ぶことも、よく起こっている。宗教を信仰することは、よい場合も多く、一概に悪いとはいえないが、とくに儲け主義色の強い新興宗教では、家族内だけではなく、人間関係などでも問題となり、マルチ商法でも同様のことがいえる。宗教やマルチ商法の没入トラブルの原因は、無知に起因する自己の弱さが原因になる場合がほとんどであり、主体的学びによる世界観拡大を実現する生涯学習で、未然に予防することができる。
表現の自由に関する部分的改憲議論も視野に
現行の日本国憲法は、第九条のように、世界に誇るべきすばらしい条項もあるから、改憲議論は慎重にあるべきである。一方で、新自由主義のもとで、前述のような矛盾を生む原因になっている条項もある。それは、表現の自由だ。現行の憲法下で、殺傷ゲームの販売禁止を求める訴訟を起こしたとしても、被告側は、表現の自由を盾にしてくるだろう。表現の自由はあっても、性的表現に関しては厳格な規制がまかり通っている場合があるが、意外にも殺傷ゲームに関しては、事実上野放し状態だ。しかしながら、没入により殺傷行為に及ぶ危険性を考えれば、殺傷ゲームの規制は、より社会的重要度が高いといえる。表現の自由は原則として尊重しつつも、その中で、例外事項として、暴力的殺傷表現があり、なおかつ没入性があるような作品は、治安維持の観点から規制できるようにする改憲議論は、現代社会の矛盾を是正する観点から、必要であるといえよう。
※参考:日本共産党のコメント(改憲反対の立場から)
治安悪化の原因となりうるような暴力・殺傷表現の規制は、(既存の性的表現の規制や銃刀法などと同様に)憲法を改正しなくても、法律で十分に可能だと考える。このような法律の制定は、社会的に重要な意味があるものだと考える。
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