米とトマトとのあまりにも大きな違い
米の場合、コシヒカリなどの銘品種米は高値がつきますが、品種名不明のブレンド米は最安値で販売されています。これは当然のことだと疑わない人は多いでしょう。
では、トマトではどうでしょうか。品種名が曖昧にされて売られていることが多く、しかも、生産者による品種名保証付きで販売されているものもほぼ同じ価格で販売されていることが多くなっています。そもそも、品種名保証付きのトマトというもの自体が少なく、トマトの品種名を識別するという概念自体が、八百屋や野菜売り場担当者ですら忘れられている思考停止の現状があります。農業者の立場で考えれば、これでは、トマトなどの野菜を品種にこだわってつくるモチベーションがだだ下がりであり、野菜生産農業そのものを放棄したくなる気持ちもわかるのではないでしょうか。実際に、日本の農業の将来を悲観した農家の廃業が相次いでいるといいます。
トマトの品種の現状
まず現状をざっくり言うなら、日本のトマト農家のほとんどは、毎年、種苗会社から種子を購入しています。そうしないと、毎年、同じ形質のトマトの生産が保証できないからです。一代交配(F1)の宿命といえる、メンデルの遺伝の法則に従うように、親と同じ果実が子孫の果実ではできないという性質を利用した、種苗会社の種子ビジネスです。今日では、大玉トマトでは「桃太郎」系統が圧倒的なシェアを占めており、ミニトマトでは、従来の球形果品種を抑え、ラグビーボール型果の「アイコ」系統が大きなシェアを占めていますが、いずれも固定種ではなく、事実上採種継代ができないF1の品種です。地域の農協や農業法人などの大きな組織が、種苗会社から一括で種子を調達し、末端の生産農家は、組織からF1種子や肥料、土壌改良資材、農薬などといった物資の供給を受け、組織の言いなりで播種して栽培し、味よりも美形優先のトマトを出荷して定型的にマネタイズするといったことを繰り返しているうちに、批判的思考の余地がなくなり、その結果として、スーパーやデパートで「名なしトマト」が売られるようになっていったわけです。思考停止を余儀なくされ、そこでトレーサビリティが途切れ、本来あるべき持続可能な農業ができなくなり、社会的存在意義を見失い疲弊を招く悪循環。その悪循環の原点には、いつも商業依存があることがわかります。
論より証拠、一度、現在、ごくあたりまえに売られているトマトを、何も付けずにそのまま食べてみてください。水っぽくて、ほのかに酸味があるだけで、トマトらしい風味を欠いており、この問題提起記事の言わんとしていることが痛いほどによくわかるはずです。
能勢・ぎんぶなのうえんが固定種イタリアントマト栽培にこだわる理由
能勢・ぎんぶなのうえんでは現在、イタリア・パルマ地方特産の固定種トマトを栽培しています。(正確な品種名は、収穫が始まる頃に公開予定です。)品種登録(パテント)のない固定種ですから、採種継代を合法的に行うことができ、毎年採種しても、親とほぼ同じ形質が引き継がれます。
日本の農業に活気があった頃、固定種を栽培し、毎年採種継代をするというのは、当時の農業のスタイルとしては、ごくあたりまえでした。しかし、現在では、能勢でもトマトは苗を仕入れて栽培したりする農家が多くなっているといいます。このような、外部から仕入れる苗は、品種名や栽培(育苗)履歴が曖昧であったりすることもあり、この履歴点が、トレーサビリティが途切れるデッド・セクションとなってしまうことが多いわけです。そもそもF1だから無理だとか、採種継代は面倒で種苗会社から買うほうが楽だという理由から、採種継代そのものをしない農家がほとんどです。
能勢・ぎんぶなのうえんは、農業は生き方の哲学だと考えています。人生カネがすべてだと考えることが誤りであることは誰しも納得だと思いますが、これと同じように、農業を経済的効率一辺倒で考えるのは誤りであって、そのような経済的合理性に過度に偏重した農業こそが、農業の自滅を招く大きな原因であるとも考えています。だから、農業では、面倒だからという理由だけで遠ざけてはならないのです。面倒に見える作業であっても、その一つひとつに、科学的な意味合いがあることもさることながら、人生哲学や社会哲学にも通じる、哲学的に深い意味があるのです。
そして、イタリアンにこだわる理由について。イタリアといえば、ローマでのマクドナルド反対運動をルーツとするスローフード(ホールフード)運動があります。今日では、超加工食品というキーワードが、生活習慣病の最大の敵だとして頻出しますが、イタリアでは、その自国文化を大切にする国民性も相まって、イタリアで代々伝わってきたトマト料理などのイタリア伝統野菜をふんだんに使った料理の食文化も大切にされてきており、その多くが現代に継承されています。能勢・ぎんぶなのうえんのイタリア伝統野菜へのこだわりには、イタリアで始まったスローフード運動への敬意が込められているのです。
商業依存で失いつつあるのは、農地環境だけではありません。本来あるべき持続可能な農を通じて、人間性や持続可能な社会像を取り戻したい。そんな思いから、能勢・ぎんぶなのうえんでは、経済性度外視であったとしても、固定種のイタリアントマトを栽培しているのです。
コメント