「おしりペンペン四谷大塚」問題から洞察する児童教育病理

「おしりペンペン」で注目を浴びた難関中学進学予備校、四谷大塚のロゴ

「がんばらない子ははだかでおしりペンペンです」

「東進ハイスクール」や「イトマンスイミングスクール」などの教育事業を展開するナガセ(東京都武蔵野市)グループの難関中学進学専門予備校「四谷大塚」(東京都中野区)で講師を務めていた森崇翔容疑者(24)は、特定の教え子と直接接することができる予備校講師の立場を悪用し、教え子、とくに女子児童に「お仕置き(しつけ)」や「個別面談」という進学予備校らしい理由をつけては、女子児童の股間を盗撮し、商業SNS上にあるロリコン仲間のグループチャットで私的に共有していたという、教育を任された者としては想像を絶するようなあるまじき対応をしていたとして、11日、強制わいせつと東京都迷惑防止条例違反の容疑で警視庁に再逮捕されました。この事件を受けて四谷大塚は、講師のスマートフォンの持ち込みを禁止したり、講師の行動を防犯カメラで監視するなどの付け焼き刃的な再発防止策を講じたということですが、時すでに遅し、「おしりペンペンの四谷大塚」という、あまりにも屈辱的な印象が染み付いてしまいました。ESD時代の到来で、ただでさえ、行き過ぎた受験戦争を煽り、こどもとして当然の権利を奪うことから「児童虐待だ」とも揶揄されることもある予備校業界は、従来の常識といえる知識詰め込み・受験対策偏重からの脱却も迫られ、苦境に立たされています。そのような状況にあって、今回の四谷大塚の問題は、社会における予備校の存在意義すら揺るがしかねない問題を引き起こすことになりました。

実は親の見栄!「こどもの将来より親の自己満足」隠れ児童虐待の実態

他のメディアの報道では、四谷大塚の問題講師だけが悪いかのような報道をされていますが、ほんとうにそうでしょうか。たしかに、四谷大塚の問題講師とその管理監督責任があるとされた、会社としての四谷大塚に責任の大部分があることは、誰しも認めるところです。しかし、すこし見方を変えれば、

四谷大塚などの進学予備校に通わせるかどうかを決めるのは、親の責任であって、親が通わせない判断をすれば、確実に防げたはず

とみることもできるわけで、よって、四谷大塚の信用についての熟考を怠り、通わせる判断をしてしまった親にも、ある程度の責任シェアはあって然るべきだといえるわけです。これは、交通事故を起こした際の、加害者と負傷者との間の過失責任割合の考え方とよく似ています。

四谷大塚などの進学予備校に通わせるかどうかを判断する際に、講師について事前に調査したり、子持ちの親として講師と直接対話を重ねるという親御さんはどのくらいいるでしょうか。せいぜい、予備校主催の入学説明会(入学テスト)に参加して、予備校側の都合のよい話を聞いて、ブランドイメージに勝手に納得したノリで入学を申し込むというケースが多いのではないかと思います。数時間とはいえども、大切な我が子を預けるわけですから、直接こどもと接する講師と腹を割って交渉をするのは、認められて然るべきことです。というより、これをしなければ、ほんとうに子育てに責任を持っているのかを疑いたくなるほどです。

では、なぜそのような子育て親として当然の努力をせず、安易に予備校に入学させることが常態化しているのでしょうか。理由は単純です。予備校にカネさえ払っておけば、親がこどもを入学させたい名門中学への入学がほぼ保証され、これによって、親が見栄を張るだけの裏付けができるからです。親が苦労するといえば、カネ(月謝)を払うくらいで、東京や大阪などの都心部近くに居住の高収入世帯にとっては容易いものです。このような親の拝金主義で、とりあえずは名門中学に入学させれば世間体を保てるという親の自己満足を満たすことができるわけです。四谷大塚のような進学予備校は、そのような浅はかな親のニーズを満たす場になっているというわけです。

よくドラマでみるように、そのような親の下で育つこどもは、とにかく親の期待に応えるべく、いい子を演じることに必死です。そのため、予備校通いのこどもたちは、「おてんば・わんぱく」といったこどもらしさは押し殺し、学校のテストでの得点は問題外、予備校のテストや模試でいかに高得点を獲得し、親を喜ばせるかということばかりを考えるため、こどもらしくない青ざめたストレスフルな表情をしています。このように、予備校での勉強のことばかりを考えることを余儀なくされるわけですから、その予備校の講師がわいせつ行為などの悪質な行為を働いたとしても、親からは「予備校の指導には従いなさい」としつけられているわけで、従順で真面目なこどもほど、(予備校側に)無抵抗で知らないふりを強いられることになることは、容易に推察されるはずです。それだけに、今回の森容疑者の犯行は、その悪質性が際立つわけです。実際にわいせつ事件にあった被害児童の心のケアが必要なことはいうまでもありませんが、それでも、一生のトラウマになるかもしれないわけです。こどものほうから親に懇願して予備校に入学させるというのであれば、話は別かもしれませんが、ただ親の希望を満たすためだけで予備校に入学させるというのであれば、それを児童虐待といわずして何といえばよいのでしょうか。

四谷大塚などの予備校だけが一方的に悪いと突っぱねることは簡単なことです。このような問題を二度と起こさないために、親としてどのように考え、(不祥事リスクがある予備校に通わせない代替案として)どのように子育て行動に反映させるか、価値観の転換も視野に入れた熟考をすることこそ、真の親に課せられた責任ではないでしょうか。

「おてんばわんぱくにあそぶ」は小学生の「必須栄養」、させないのは児童虐待

おてんば・わんぱく放題にあそぶことは、小学生までの特権であると同時に、小学生までの児童期の人間形成に欠かせない、教育上の「必須栄養」ともいえる、とても重要なことです。大自然を相手にしたあそびや、木製のシンプルな玩具を使ったあそび、同世代のこどもと皮膚がこすれあうようなあそびなど、昭和の頃の定番といえる教育的質の高いあそびのなかには、座学の教科学習を超える教育効果のあるものも多く、ESD時代の今日では、そのような昭和の頃のあそびの教育効果が見直される動きもあります。

しかし、最近では、都市事情や親の都合などという言い訳で、室内にこもって商業ゲームをさせるといった、あそびの質の低下が問題となっています。そのようなあそびには、昭和の頃のあそびのような教育効果はなく、逆に教育上のマイナスになるものです。

昭和の頃のあそびの機会を小学生のこどもに与えないことは、こどもの健全にあそぶ権利を奪うことであり、そのようなこどもの権利を大人の都合で奪うような親や社会は、児童虐待というべきです。

「知らなかった」では済まされない!人生経験乏しい男性講師のわいせつ犯罪リスク

教育職で性犯罪を犯すのは、人生経験の乏しい20代から30代くらいの若年男性が多くなっています。とくに、若いうちの失敗や挫折の経験が少なく、ぬるく順風満帆な人生を歩んできた人は、人の痛みに対する共感性に乏しいため、自己中心的な行為を厭わない傾向が強いといえます。そのような共感性に乏しい人は、そもそも教育関連職につくべきではありません。性犯罪や薬物犯罪、その他、いじめなど犯罪につながるような人権侵害行為を無意識のうちに犯してしまう危険性が高いからです。このような教育不適格者が教育関連職に就いているケースは、今日にあっては決して少なくはないことは、毎日のように全国のどこかで繰り返される教育不祥事報道からもおわかりのとおりです。小学生向けの学習塾や進学予備校は、給与を低廉に設定しやすいことから、20代から30代くらいの若年者を講師として採用するケースが多いですが、若い講師、とくに男性は、今回の四谷大塚のように、人間性にかかる市民信用審査がほぼ行われず、ロリコン嗜好を持つ人が講師で採用されるケースも多いとみられ、とくに危険です。

このような人的リスクを未然に回避するため、児童教育というセンシティブな業務が関わる銀鮒の里学校やふなあんSEPCでは、活動資格確認として、銀鮒の里アカウントの交付審査を必須実施としています。現在、児童教育を手掛ける教育現場では、性犯罪歴のある人を完全排除するしくみのDBSの日本版の実現に関心が向けられていますが、銀鮒の里アカウントの交付審査では、性犯罪歴のないことの確認に加えて、

  • 嗜好目的身体加工の禁止
  • 外資系ジャンクフードの禁止
  • 嗜好目的向精神性薬物(タバコ)やその関連付随物(大麻由来物など)の禁止
  • 商業ゲーム等低俗商業的娯楽(ロリコン同人小説等のサブカルチャーを含む)の禁止
  • 連鎖販売取引(MLM)の禁止
  • 反社会的勢力や社会的に問題のある組織との不関与確認

など、自分を大切にする素質があるかどうか、商業主義への依存志向がないかどうか、利他性(他者配慮性)があるかどうか、正義を愛し、曲がったことを許さないという揺るぎない精神を持っているかどうかという観点から、教育者としてリスクの高い行動を行わないことの確認を行っています。銀鮒の里アカウントは、常識人であるかぎり、誰でも審査を通過して取得できる性善説的・陽指向のアカウントです。言い換えれば、審査を通過できるかどうかが不安な人は、教育者としてリスクが高い危険要素をはらんでいるということになるわけです。教育者として第三者的に信頼できるしくみを提供することを目指して、銀鮒の里アカウントという、DBS以上の安心を提供しうる、プロアクティブ・ディフェンス(PAD)発想の認証制度があるわけです。もし、我が子に講師がつく習い事などをさせることを検討している場合は、その講師に、「銀鮒の里アカウントをお持ちですか」と確認することで、その講師がほんとうに教育者として信頼できるかどうか(教育不適格者に該当しないかどうか)を簡単に見極めることができます。もし、その講師が銀鮒の里アカウントを持っていない、今後も取得する意思がない場合は、そのような講師がいる塾や予備校は拒否することを、銀鮒の里学校は、あなたの大切なわが子を守るために強く助言いたします。

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おしりの哲学:最も神聖なるからだの部位

なぜ、手のひらは気軽にタッチしてもよいのに、おしりや性器はダメなのか、あなたは説明できるでしょうか。「そんなの常識だ」というのは、わかっていないということであり、思考停止の現れです。

結論からいえば、おしりや性器というのは、からだの中で最も美しくして神聖な部位だからです。手のひらは元来、なにか別の物体に触れたり握って保持したり、握手やハイタッチなどの非言語コミュニケーションで使ったり、何かを感じるために積極的に触れる部位であるのに対して、おしりや性器というのは、元来、積極的に触れるための部位ではなく、触れるべき対象物が最も限られる部位です。生身の人間が公然とおしりや性器を露出させることは、見てはいけないものだと心に普遍的に刻まれているものを強制的に見せつけられることについて、強い嫌悪感や羞恥感を強要することになるため、明らかに犯罪になりますが、彫刻や絵画などの美術作品で、あえておしりや性器を描写したものでは容認され、高く評価されているのは、美術的観点からみて、おしりや性器が非常に繊細で美しいからなのです。こども向けの正しい性教育を目的とした絵本でも、こどものおしりや性器をあえてイラスト表記したものは、正しい性教育という観点から倫理上容認されており、公立図書館でもそのような本が配架されています。これは、実際の生身の人のおしりや性器に触れることは容認されないことに対する代替案とみることもできます。

日常的には、おしりからは、大小の元気の便りが出てきます。肛門からは芳しい香りの太い大便(うんち)が、尿道口からは金色に輝く小便(おしっこ)が出ます。新たな生命が生まれるのも、女の人のおしりの真ん中の穴からです。おしりや性器の筋肉はからだの中で最もしなやかで弾力性や伸縮性に富んでいますが、それは、大地への「ありがとう」のメッセージとなる太いうんちを出したり、新しい生命が生まれることに対応するために、そのようになったと考えられます。そのような神聖なるおしりや性器は、パンツ(下着)とズボンで最も丁寧に覆われ、おしりが触れたときの感触がよい、すべすべの無垢の木などのいすに座ることは、生きるよろこびを実感できたりするものです。他人のおしりやふとももがぴったり接して温まった木のいすにすわって人のぬくもりを分かち合うのも気持ちよいものです。こどもが半ズボンやショートスカートですべすべの木のいすにすわらせることの教育的効果は、そういうことでもあるのです。

このように考えると、太い元気なうんちが出たり、新しい生命の誕生にも必ず関係する神聖な部位のおしりを(しつけと称して)ペンペンしたり、美術性のない私的性欲を満たすだけのポルノ行為がいかに罪深いことかがおわかりいただけるかと思います。周りの大人が、こどもたちの神聖なおしりのことを正しく考えていないことが、こどもたちが学校でうんちができない問題の一つの原因になっているかもしれません。もし、周りの大人が、こどもたちのおしりのことを正しく考えていたならば、こどもたちには、無垢の木のいすに座らせてあげたいと思ったり、快便のために、マクドナルドのようなものを一切食べさせず、まごわやさしいを食べさせてあげたり、ほんとうは芳しく力強い香りがする洋式のバイオトイレでうんちを楽しませてあげたいと思うことでしょう。おしりをおしりペンペンやわいせつ興味の対象にすること自体が、実はおしりを哲学的に正しく理解せず、タブー視の対象としていることの病的な現れなのです。

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